肥後 河内浦城ひご かわちうらじょう

城郭放浪記


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肥後 河内浦城の写真
掲載写真数
形態
丘城(30m/30m)
別 名
なし
文化財指定
なし/不明
遺 構
土塁,郭,堀
城 主
天草氏(河内浦氏)
歴 史

築城年代は定かではないが天草氏(河内浦氏)によって築かれたと云われる。

天草氏の居城は河内浦であるが、字「城山」に下田城があり、この河内浦城と合わせて下田城とも呼ばれた。

『志岐文書』には建武4年(1377年)に河内浦大夫三郎入道が天草郡本砥島并亀河地頭職を巡って志岐氏と争ったことが記されている。

天草五人衆の一人に数えられた天草氏は鎮尚のときキリスト教の布教を許可して洗礼を受けドン・ミゲルと名乗った。鎮尚の子久種もまたドン・ジョアンとなる。天草氏は天正15年(1582年)豊臣秀吉の九州征伐で本領を安堵され、その後肥後に入部した佐々成政の支配下、さらに小西行長に従った。天正17年(1589年)天草国人一揆を起こしたものの、小西行長・加藤清正らによって鎮圧され降伏した。関ヶ原合戦によって小西行長が改易となると、天草氏は小早川秀秋の家臣となったが、秀秋もまた改易となり、天草氏の嫡流は没落した。

河内浦城は関ヶ原合戦後に肥前国唐津に入部した寺沢広高の支城となったが、元和の一国一城令によって廃城となり郡代屋敷が置かれた。

説 明

河内浦城は崇円寺の北背後にある南へ伸びた尾根に築かれており、現在は史跡公園として整備されている。

崇円寺の境内が館跡と推測されており、背後の詰城と居館が一帯となった城であった。河内浦城は発掘調査で出土した遺物から十五世紀中葉から十六世紀後半にかけて利用されていたようである。曲輪には百以上の柱跡が検出されており、望楼のような遺構も確認されている。これらの一部が現在公園として平面復元されている。

発掘調査で出土した遺物の一部は登り口の一つ、天草市総合交流施設 天然温泉「愛夢里」の近くにある「河内浦城跡資料展示館」で展示されている。

案 内

「河内浦城跡資料展示館」のある「愛夢里」の所から登るのが良いだろう。遊歩道はそのまま崇円寺へ降りることができる。

所在地/地図
熊本県天草市河浦町河浦
付近の城(直線距離)
0.5km 肥後 下田城
6.8km 肥後 宮野河内城
最終訪問日
2015年7月
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