築城年代は定かではない。 城主は江口五兵衛光清で、上杉領との境に位置する要所の為、武勇の誉れ高かった江口氏が長岡城より八千石を領して移封されたという。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦前、上杉討伐のため北上中の徳川家康は石田三成の挙兵により西へ引き返す。最上氏は南部氏などの諸将を最上へ集結し米沢口より会津領へ押し寄せる予定であったが、石田三成の挙兵を聞いた諸将は領内の安定をはかるために領国へ退いてしまう。上杉氏は周辺大名の動向を見たうえで、直江兼続を主将とする大軍を最上領へ侵攻させる。これに対して最上軍は各出城を破棄して兵力を集中させることを目指すが、畑谷城主江口光清は、敵を目の前にして城を明け渡すのは武士として末代までの名折れとして上杉軍を迎え撃った。義光は飯田播磨守・谷柏相模守などを援軍として派遣したが、到着する前に落城、勝ちに乗じた上杉軍は軍勢を二手に分け長谷堂城・上山城へと向かった。
畑谷城は標高549mの館山に築かれており、現在は町指定史跡として登山道などが整備されている。
縄張がユニークで他では味わえない楽しさがあり、遺構の保存状態が良く、見学路も設置され見学し易い山城である。
主郭は館山山頂の曲輪群Iで、最高所を中心に南西側に長く小さな段を設けている。南端に虎口があり、クチバシ状に土塁が突出している。主郭の周囲は西が二重横堀7、北から東にかけて横堀6で囲む。南側には横堀が回らず、横堀の南端はいずれも竪堀に変化する。横堀6の南端は二条の連続竪堀8、二重横堀10の南端は外側が南の竪堀、内側は東へ伸び、脇に竪堀10が付属する。また虎口から続くスロープの下にも三重の畝状竪堀群9が確認できるが、東の連続竪堀8とは繋がらない。
主郭の東下に方形の曲輪IIがある。この曲輪の中央を畑谷と梁沢を結ぶ道が貫通し、道になっている部分が一番低く、東西両側はやや高くなる。
主郭から西へ少し離れた位置に二重堀切11がある。現地案内では三重堀であるが、一番内側は堀に付属する土塁と自然傾斜の間にできたもので、堀とはみなせない。この堀に面した曲輪は設置されておらず、自然の緩斜面尾根が続いている。
南麓の長松寺の隣に駐車場と登山口がある。長松寺には江口光清の墓所がある。
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