ちくぜん・たかとりやまじょう

筑前・鷹取山城
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  別名  
鷹取城
  形態  
山城(620m/560m)
  歴史  

永承元年(1046年)永井因幡守宗久によって築かれたと云われる。 宗久は長谷川兵部卿吉武の宿老という。

正慶2年・元弘3年(1333年)少弐式部少輔頼直の居城となった。 貞和元年・興国6年(1345年)筑紫上総介統種が城主となると以後種遠・種重・総盛と代々筑紫氏が続いたが、応永6年(1399年)菊池武宗に攻められ落城した。

明応年間(1492年〜1501年)には大内氏が侵攻して大内氏の家臣岡部彦右衛門が城主となった。

天文年間(1532年〜1555年)には毛利兵部少輔鎮実が城主であったが大内氏に属しており、天文11年(1543年)大友氏に攻められ降伏し再び大友氏に属した。

天正14年(1586年)鎮実に代わって筑紫左馬守広門が城主となっていたが同年六月に島津氏の侵攻により肥前国勝尾城へ逃れた。

慶長6年(1601年)関ヶ原合戦後に筑前に入封した黒田長政は六端城の一つとして母里太兵衛友信に一万八千石を与えて城主としたが、同じく六端城の一つ益富城主の後藤又兵衛基次が逐電した為、友信は益富城に移り、代わって手塚孫大夫光重が城主となった。 元和の一国一城令によって廃城となった。

  説明  

鷹取山城は福智山から西へ延びた尾根の先端頂部、標高620mの鷹取山山頂に築かれている。

本丸は山頂にあって二段の平地で構成されている。上段は西と東に虎口を開き、下段は北と南に虎口を開いている。北の虎口は石垣を用いた枡形で幅が広く、対して南の虎口は石垣を用いた枡形虎口であるが幅が狭く一人が通るのがやっとの状態である。本丸の穂東側面には幅広の畝状竪堀群が巡らされており圧巻である。

本丸から東の福智山方面に伸びた尾根には二の丸がある。二の丸は三条の堀切で区画された曲輪が続き、先端の曲輪は東側に横堀を設けている。

本丸から北北西に伸びた尾根にも妙見曲輪と伝えられる曲輪群があり、堀切や土塁などは見あたらないが切岸加工された削平地が続いている。この北端のやや高くなった場所には畝状竪堀のように石が積み上げられた状態になっているが、これが何を意味しているのかはわからない。

  城主  
永井宗久,少弐頼直,筑紫統種,筑紫種遠,筑紫種重,筑紫総盛,岡部彦右衛門,毛利鎮実,筑紫広門,母里友信,手塚光重
  案内  

ハイキングコースとして人気のある福智山への登山道を利用して登ることができる。登山口はいくつかあるようですが、北の福智山ダム付近、南の白糸の滝付近からが一般的なのでしょうか。今回は南の白糸の滝から登りました。

 所在地 
福岡県直方市大字永満寺(鷹取山)
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※距離はおおよその直線距離です。
海・川・山などの地形および交通手段は全く考慮していません。



最終訪問日
2010年3月

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