築城年代は定かではないが天文年間(1532年〜1555年)に高橋鑑種によって築かれたと云われる。
高橋鑑種は豊後の大友氏の庶流一萬田氏より筑前国高橋氏の家督を継いだ武将で、筑前国守護代として宝満山城と岩屋城の城督を務めた。
高橋鑑種は武勇に優れた武将であったが、永禄年間(1558年〜1570年)に大友氏を離反して毛利氏に付いた。しかし、永禄12年(1569年)毛利氏は山陰で尼子残党が挙兵したこともあって九州から撤退する。これにより後ろ盾を失った高橋鑑種は大友氏に降り、鑑種は高橋家の家督を剥奪された。替わって吉弘鑑理の子の高橋鎮種(のちの高橋紹運)が家督を継いだ。
天正14年(1586年)薩摩の島津氏が北上してくると、岩屋城には高橋紹運、宝満山城には紹運の次男で筑紫広門の娘婿である高橋統増が筑紫氏の家臣とともに籠城した。 岩屋城では壮絶な戦いの末に、高橋紹運以下籠城兵数百がことごとく討死した。
その後、秀吉の援軍が九州に来襲した報を受けた島津氏は城を秋月氏に預けたが、立花山城の立花統虎によって奪いかえされ、天正15年(1587年)破却された。
岩屋城は大宰府の北、大野城のある四王寺の一部標高281mの岩屋山に築かれている。 余り遺構が残っていないと思われていたが、「福岡の城郭」に掲載された縄張図には本丸から南の山腹に広がる遺構が良く描かれている。
本丸の周囲には林道が通っているが主郭と帯曲輪が残り、子孫によって建立された「嗚呼壮烈岩屋城址」の碑は有名である。北背後には土塁と堀切が残っている。
本丸の南西下にある高橋紹運と勇士の墓がある部分が二ノ丸とされる。ここから南東の岩屋谷道へと降りていくと南へ派生した尾根に無数の堀切と竪堀が所狭しと刻まれている。しかし、この辺りはそれを守る曲輪の存在がはっきりしない。さらに東へ山腹を移動し、南東の大願寺へと降りる尾根には階段状に曲輪が連なる。鉄塔よりさらに下方の標高140m付近に南端の曲輪があり、その下方には畝状竪堀群が残されている。
徒歩の場合、太宰府市民の森から登山道がある。車の場合は太宰府から宇美町へ抜ける林道を走り、22番カーブと23番カーブの間に本丸への入口がある。駐車場はないが、付近のカーブ近くに路側帯があり駐車できる。
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