築城年代は定かではないが正平年間(1346年〜1370年)に田原貞広によって築かれたと云われる。田原氏四代貞広のときに飯塚城を築いて沓掛城から移ったという。
大友三家の一つ田原氏の居城で国東田原家とも呼ばれ代々続いたが、天文13年(1544年)に大洪水により損壊したため亀城を築いて移ったという。
天正8年(1580年)田原親宏の跡を巡る家督争いで、大友宗麟が次男親家に田原家の家督を継がせようと画策し、親宏の養子であった田原親貫は毛利氏などに援軍を求めてこれに対抗したが敗れ、国東田原家は親家が継いで田原親家と称した。
飯塚城は現在の国東小学校の地に築かれていた。田深川南岸の独立丘陵にあり、西には安国寺がある。
一部石垣が残るとも云われるが、飯塚城の遺構はほぼ消滅している。学校内のグラウンドに近い所に飯塚城の石碑が建っている。
西にある安国寺は田原氏能が名僧絶海中津を開山に迎えて建立した寺院で、足利尊氏坐像が安置されている。また、北にある吉木には田原氏能が討死した父貞広を供養するため建立した九重塔が残されている。